幕田魁心

NewLeader 2009年6月号、7月号

わが人生を行く

ジャーナリスト 宮本惇夫

しょせん“書″は独学
美の享受は情熱の持続
一日も「筆」を離さず

書道家 幕田 魁心さん

筆「一本」あれば一生仕事ができる

 月の沙漠をはるばると
 旗の酪駄がゆきました
 金と銀との鞍置いて
 二つ並んでゆきました


 いうまでもなくこれは日本でよく知られた童謡の一節で、詩を書いたのは控情詩人の加藤まさを。学生時代に彼が結核の療養に訪れた、千葉県の御宿海岸の砂丘をヒントに、イメージを膨らませて書いたのが「月の沙漢」という。
その後、御宿海岸には王子と姫を乗せたラクダ像や「月の沙漠記念館」が作られた。 このほかにも千葉を舞台にした童謡・詩歌はたくさんある。野口雨情作「証城寺狸囁子」、斉藤信夫の「里の秋」、竹久夢二「宵待ち草」、西条八十の「かなりや」は内房・保田が創作の地といわれている。
 これらの童謡や詩歌を“書”で表現し、展示した展覧会が、四月から南房稔・鋸南町の菱川師官記念館で行われている。
 題して「幕田魁心 書の世界-書でいざなう房総の童謡・詩歌・民話」。 
 この展覧会の主人公・幕田魁心(まくた・かいしん)、本名は隆(たかし)。書壇の中では珍しく師匠をもたず団体にも属さず、まさに一匹狼で生き抜いてきた書家である。これまで著書は一七冊に及び、業界紙の全日本書道家番付表によれば大関にランクされているから、相当な実力を持った書道家といえる。
 一九四七年生まれの六一歳。現在、千葉県を中心に四つの教室と千葉大学講師の肩書きを持ち、魁心流を率いている。果たしてどのような書道人生を歩いてきたのだろうか。
 幕田は福岡県北九州市の出身で父親は新日鉄マン。彼も高校時代まで北九州市で過ごした。その後、父親は君津製鉄所へ転勤になり居を千葉に移すことになるが、ちょうどそのとき彼も関東の大東文化大学中国文学科へ入学をした。
 彼が書道を習い始めたのは小学二~三年の頃。母親が熱心で塾の教室までついてきて隣で墨を磨ってくれたという。戸畑高校へ入学するとそこで一人の教師に出会う。豊島嘉穂先生がその人で、書道に熱い情熱を待った先生だった。彼はその情熱に引き込まれますます書道が好きになっていった。
 入学した戸畑高校では、二年生の秋になると将来の進路を決めなければならなかった。
文科系か理科系か。彼は早くから教師志望で、それには得意の書か剣道どちらかを専門分野に選び、教師への道を開こうとしていた。
 ある日新聞で、がんと闘いながらも、死ぬ間際まで自分の研究に打ち込んだ学者の話を読み大きな刺激を受けた。人間は死ぬまでやれるような仕事、芸を身につけたほうがいいのではないかと思い、書の道を選ぶ決断をする。剣道は体力がなくなればできなくなる、しかし書は筆一本あれば一生仕事ができる。
 その日以来、彼は一日たりとも身から筆を離すことなく、練習に励んだ。修学旅行のときも筆を持参したが、クラスメート連との話に熱中し練習をする機会を失ってしまった。しかしその後、大学時代、教師時代でも筆は離していない。新婚旅行のときでさえ筆を持参し練習をしたというから、その凄まじい練習ぶりがわかろうというものである。

脳髄をシビレさせた言葉
田舎者ほど師につきたがる

一九六七年、彼は大東文化大中国文学科へ入学するが、そこで彼はひとりの指導者に出会う。週一度書道講師として教えに来ていた書道家の安藤榻石である。
彼は入学間もない幕田等学生に向かってこういったという。
「情熱の持続-死ぬまでこれをもち得た人間のみが書の美を享受することができる」と。この言葉にガツンとやられたところに、さらに安藤はこういった。
 「東京には指導者がいっぱいいる。指導者によって考え方もそれぞれ異なるから、ゆっくり考えて決めなさい。田舎者ほどすぐに師につきたがる」
 北九州から上京したばかりの幕田は、当時、書道家として名声の高かった青山杉雨に憧れ、その門下に加わりたいと思い、ボストンバックに作品とパンや牛乳を詰め、杉雨邸の前で座り込みを決行しようと思っていたところであった。
 それだけに、安藤の言葉は幕田の脳髄にまでシビレを与えた。
 早速、安藤を追いかけ弟子入りを志願した。しかし彼は「俺は弟子は取らない」とにべもなく幕田を突き放す。ただ「会って話のお相手をするのは厭わない」という。そこで幕田は、安藤が当時籍を置いていた銀座松坂屋に、週一~二回は臨書(手本を見ながら書いた書)を携えて訪ねた。
 訪ねていくと安藤は決まって近くの喫茶店に幕田を連れ出し、書道理論から方法論、取り組む姿勢など、書に関するありとあらゆる知識を彼に伝授してくれた。安藤の書に関する理論、情熱に幕田は激しく心を打たれ、密かに師と仰ぐようになる。
 喫茶店で聞いた安藤の話を、彼は帰りの電車なかで懸命にメモした。それは二冊のノ
ートとなって、彼のかけがえのない財産となっていく。
 「学生のときに書の方法論がわかればいい。しょせん、書は独学だからね」
 とは、その当時の安藤の言葉という。

毎月四万円、辿り着いたのは銀座四丁目「ゆうきや画廊」

一九七一年、大学を卒業した幕田は志望通り教師となり、千葉県立天羽高校、同袖ヶ浦高校、そして同木更津高校で教師生活を送り、剣道部顧問となって関東大会男子団体第四位、女子個人優勝という実績を上げたこともある。
 実はその間、本命としてきた書について大きな出来事を経験した。一つは二五歳の時、師と仰いできた安藤榻石をがんで失ったことである。まだ五八歳という若さだった。以来、幕田は安藤以上の理論と情熱を持った指導者に出会わなかったこともあり、師にもつかず、どこの団体にも属さず、まさに一匹狼で書の世界にチャレンジをしていくことになる。
 さらに教員時代の三三歳の時、書道界の中国旅行で一緒になったある大学数授から、「先輩たちは、だいたい君の年の時は何か起こしているよ」と厳しい言葉を浴びせられ、ハッと日が覚めた。
 そこで幕田は個展を企画する。しかし個展を開くには相当な資金が掛かる。しかも相談
した先輩には「個展をやるのであれば田舎ではやるな。東京のど真ん中でやれ」とのアド
バイスを受けた。
 その日から幕田は、三年後の個展に向け、資金作りを開始した。毎月給料から四万円ずつ貯金をし、それにボーナスを併せ、一年間に六〇万円、三年で一人〇万円の資金を貯める。しかしそれでも一〇〇万~二〇〇万円足りない計算になるが、そこは作品の売り上げに期待し、一九八二年、三五歳の時に東京銀座の「ゆうきや画廊」で、第一回目の個展を開催するのである。
 「東京のど真ん中といわれても、私のような田舎者にはどこがど真ん中なのかわからない。銀座一丁日から七丁目まで何十軒という画廊を調べて歩き、そして辿り着いたのが四丁目のゆうきや画廊だった」 と幕田は振り返る。
 それが彼の書道界において、己の道を切り拓く大きな糸口になっていく。

筆字の中に呼吸がある
書は指先の芸術、文化
書風の美を追い続ける

うまい作品は努力すれば書ける
会話ができるのが「いい作品」
 千葉県は南房総の鋸南町。風光明媚な海沿いの町で、昔は文人墨客が避暑などに訪れた
町でもある。夏日漱石の『こころ』には当時の保田海岸の様子が描写されている。
 また浮世絵の祖、菱川師宣の出身地で、鋸南町には「菱川師官記念館」が建てられ、師宣の作品を中心に歌川広重、豊国、国芳ら、後の浮世絵師たちの作品も展示されている。 その記念館を会場に、六月一二日まで「幕田魁心書の世界」と題した展覧会が催された。五月の日曜日、展覧会を覗いてみた。その日は魁心民本人も顔を見せ、大勢の観客を前に一生懸命展示作品についての解説をしていた。
 「これは与謝野晶子の『犬吠埼』から取った字で、やはり〝怒涛″らしく、荒々しい感じを表現しているわけです」
 展覧会には一〇〇点もの作品が出品されているが、一点一点に独特の個性が漂い、流麗な書もあれば、ほっとするような暖かさなど書の美しさ、魅力が会場中に横溢していた。
 「うまい作品と、いい作品は違います。うまさというのは技術です。練習に練習を重ねていけば技術は向上していきます。どんな人でも努力さえすれば、うまい作品は書ける。いい作品というのは見ていて飽きない。会話ができる」
 その多くは彼が主宰する書道教室の生徒達であろう。彼女、彼達を前にして野太い声でもって、幕田は書の見方、魅力を語り続ける。
 幕田が教師として仕え、展覧会に顔を見せた元千葉県立袖ヶ浦高校の校長は、
 「豪快で男らしい、清濁併せ呑むスケールの大きい先生というのが、幕田教師の印象でした。このひとはやがて日本の書道界で名を馳せる存在になるだろうと確信していた」
 と語っていたが、その予感通り彼は〝書壇に幕田あり″と、その存在が知られるようになっていく。その一つのきっかけが個展を通じてであることを前回に述べた。
 先輩のアドバイスに従い銀座の真ん中で、一九八二年に第一回、八六年に第二回、そして第三回目(八九年)からは銀座鳩居堂画廊に場所を移し、昨年(そごう千葉店)で一三
目を数える。
 この書道の世界では大御所といえども個展を開くのは一生のうち三~四回という。師を持たず書壇にも属さない一匹狼の彼にとって、個展はかけがいのない発表の場。それだけに毎回毎回全力を挙げて取り組んできた。その結果、回を重ねるに従い少しづつ書壇から注目されるようになる。
 「四〇過ぎの五回目ぐらいからだったでしょうか。日展で特選を取ったような名のある
方々が、ポッンポッンと個展を見に来てくれるようになり、五〇近くなった頃には鳩居堂
の会場に、二〇〇〇人近い人が見に来てくれた。少しは書壇で認められるようになってき
た気がして、励みになったことは確かです」

中途半囁はしたくない
筆一本、五三歳の決断

 〇一年、それは彼が大学を出て教職に就いてからちょうど三〇年目のこと。年齢も五三
歳になっていた。
 そこで彼は決断をする。今後の人生は筆一本で、作家として生きていこうと。
 筆一本の作家人生は以前から考えていたことだった。当初は四〇歳過ぎの独立を考えて
いたが、生活や子供の教育などを考えた場合、あまりにもリスキー。といって五〇を過ぎてからの独立では作家として遅いのではないか。
悩んだこともある。
 結局は五三歳での独立となつた。
 「家計の方は女房任せなので預金がいくらあるのかもわからない。ただ三人の子供がそれぞれ社会人になっていたから、夫婦二人が生活できればいい、と独立に踏み切った。後進を育て書の素晴らしさを伝達していくのが自分の使命と思っていますので、それには全神経を書に集中させていかなければならない。
教員をやりながらの作家活動には無理があるし、中途半端な生き方しかできない」
 彼は書という文芸、芸術の世界へと大きく足を踏み入れたのである。
 もちろん教育の世界に未練がなかったわけではない。なによりも彼は教育が好きだったし指導するのが好きだった。教え子が各地に散らばりその地で活躍をする。何にもましての喜びである。
 〇五年、千葉県の安房高校が剣道大会で全国制覇を成し遂げた。その剣道部部長は彼が
天羽高校時代に鍛えた教え子。その愛弟子が全国制覇を成し遂げたときは、飛び跳ねるほどの嬉しさだったといっている。
 彼が作家として独立した頃、一つの朗報が舞い込んだ。それは書の専門出版社、木耳社
からの執筆依頼だった。生涯のうちに一冊でいいから本を出したい、と思っていただけに、彼にとっては何ものにも代え難い朗報だった。
 実は彼の師匠であった安藤榻石(とうせき)も一冊だけ著書を出していた。それが木耳社からである。師との緑を感じた彼は毎朝八時にはアトリエへ入って、執筆に勤しんだ。
それが『極める!楷書』という著作第一作。その後、それはシリーズ化されて『極める!行書』 『極める!草書』といった具合に、全六巻の大作にまとめられていくのである。幕田は一年一作の刊行スケジュールで、七年間かけて全六巻のシリーズを完成させた。

六二歳にして一七冊の著書どんどん書いていきたい

 生涯に一冊どころか、六二歳にして一七冊の著書を出版する作家へと成長していったわけである。この著作活動もまた書壇に幕田魁心の名を知らしめる契機となったことはいうまでもない。
 「世の中へ書を広める、伝達するという意味では個展や展覧会には限界がある。その点、本は日本全国へ流通され多くのひとの目に触れるチャンスがある。書の素晴らしさ、良さを次の世代へ伝達していく上では最も説得力がありわかりやすい媒体です。書くチャンスがあれば、どんどん書いていきたいと思っているんです」
 昨年は一〇一歳になる曹洞宗龍源寺の元住職・松原泰道氏と合作で『一期一会』という本を出した。松原氏百歳の名言を幕田が書で表現するというもので、また彼の新しい仕事の領域を広げるものとなった。
 いうまでもなく書は日本の文化。ところがいまパソコンの普及によって、このかけがえのない日本文化が危機に瀕している。学校数育の現場から〝習字″の授業が削られつつある。小学校(三年から)はまだしも、中学校では二年、三年になると受験勉強のため、習字が削られているのが現状だという。
 幕田はNHKの番組に出たとき、パソコンの字と筆で書いた字を比べながら訴えた。
 「パソコンの漢字は明解で読みやすい。伝達力もある、しかし無機質で表情がない。しかし筆字には表情があり、情感がある。自分の思いが表現できる。そして文字の中に呼吸がある……」と。
 書は指先の芸術、箸の文化で育った日本人が生んだ日本人の文化、芸術でもある。
 毎日、朝入時にアトリエに入ると、夜の八、九時までアトリエに籠って原稿を書き、書を書いているという書尽くしの幕田魁心人生。まだ誰もやっていない魁心流の字を書くことが目標であり、夢だという。

NEWLEADER 2009.7